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常滑焼(とこなめやき)は、愛知県常滑市を中心とし

常滑焼(とこなめやき)は、愛知県常滑市を中心とし、その周辺を含む知多半島内で焼かれる陶器。

平安時代末期、猿投窯南部の灰釉陶窯の南下に伴い形成された知多半島古窯跡群を母体とするが、灰釉陶器の伝統にはない大型の甕や壺を新たに主要な器種として創造することで瓷器系中世陶器の主要生産地となった。中世の常滑焼の窯跡は1,000基以上で数千基に及ぶとされるが、その実数は不明。過去の学説では最高10,000基というものがあるが(注1)、根拠は不明瞭といわねばならない。
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平安時代末期の製品は素朴な中にも王朝文化の名残を感じさせる優美さを持ち、経塚などの仏教遺跡で用いられる事例が少なからずあり、さらに奥州平泉の遺跡群で大量につかわれていたことが判明している(注2)。

鎌倉時代には素朴で力強い壺、甕などが生産され鎌倉では、おびただしい量の壺・甕・鉢が消費されていることが鎌倉遺跡群の発掘調査で判明している。そして、平安時代末期以来、広く太平洋沿岸を中心として流通していたが、鎌倉時代になると、さらにその流通圏は拡大・充実している。瀬戸内地方の広島県福山市に所在する草戸千軒町遺跡は、備前焼の生産地に近い立地ながら、鎌倉時代の常滑焼が数多く出土しており(注3)、そこからも、この時期の常滑焼の流通のあり方がうかがわれる。

その数数千基とも言われる中世窯は、広く知多半島の丘陵部傾斜面に掘られた地下窖窯(ちかしきあながま)で、その大半は平安時代末期から南北朝期までの期間におさまっている。なお、中世常滑焼を代表する大型貯蔵具の生産は、常滑地域を中心とする半島中部の窯で行われることが多く、半島の北部や南部では、灰釉陶器に由来する山茶碗・小碗・小皿などを中心とした生産が行われている。

室町時代になると半島全域に広く分布していた窯は旧常滑町周辺に集まり、しかも集落に近接した丘陵斜面に築かれるようになる。この段階では碗・皿類の生産は行わず、壺・甕・鉢の生産に特化している。また、室町期のある段階で半地上式の大窯に窯の構造が転換している。そして、その大窯は江戸時代の常滑焼を焼いた窯でもあり、別に鉄砲窯とも呼ばれた。古美術の分野で「古常滑」と呼ばれるものは、多く窖窯で焼かれた製品を指しているが、その区分はかならずしも明確ではなく大窯製品をも古常滑の中に入れる場合も少なくない(注4)。

注1『柴山古窯址群』常滑市文化財調査報告第4集1974年常滑市教育委員会第二章1常滑市域の古窯址で杉崎章が総数1万基という推定数を示している。


注2『柳之御所跡発掘調査報告書―平泉バイパス・一関遊水地関連遺跡発掘調査―』岩手県平泉町文化財調査報告第38集1994年平泉町教育委員会ほか平泉遺跡群の発掘調査報告書には、かならずといってもよいほど常滑焼の出土が報告されている。

注3「草戸千軒町遺跡およびその周辺遺跡にみる常滑焼」佐藤昭嗣・鈴木康之『知多半島の歴史と現在』№41992年日本福祉大学知多半島総合研究所・校倉書房に詳しいが、草戸千軒町遺跡の報告書も刊行されており、常滑焼の出土が報告されている。

注4『時代別古常滑名品図録』澤田由治編著1974年光工芸では江戸時代までの作品が採録され解説されているが、古常滑の範囲に関する記述は認められない。

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2009年06月06日 11:41に投稿されたエントリーのページです。

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