2009年06月25日

開戦当初は戦争とは思えないほど

開戦当初は戦争とは思えないほど平穏な日々だったが、フランスの降伏後は、単独でナチス・ドイツと戦った。ドイツ軍の上陸を想定し、沿岸地域の住民に対し様々な対策を試みた。1940年8月下旬からはロンドンをはじめ、各都市がドイツ空軍爆撃機の夜間無差別爆撃に遭い、多くの市民が死傷した。又、ドイツ海軍Uボートによる通商破壊により生活物資の供給は逼迫、困窮した生活を余儀なくされた。1944年には、戦争がイギリスに有利になり、国民生活にも徐々に余裕が出てきたが、同年6月8日からはドイツ軍が新たにV-1飛行爆弾でロンドンやイギリス南東部を攻撃し、さらに9月13日からはV-2ロケットでの攻撃も加わり、市民に死傷者が出た。戦争が有利に展開したのに再度防空壕への避難を余儀なくされ、特にV-2は当時の戦闘技術で迎撃不可能だったので、市民への心理的影響は決して小さく無かった。

戦線から遠く離れてるため戦火に巻き込まれずにすんだが、しかしアメリカの参戦をきっかけに多くの国民は徴兵されたが、志願する人も少なくなかったが最終的に1200万人になる。これは当時のアメリカの人口10.5%にあたる。だが戦争による特需は経済を好転させる事ができ、国民のほとんどは安定した生活を送る事ができた。

第二次世界大戦の結果、ファシスト・イタリアが倒れ、ドイツと日本が降伏した。犠牲者数は世界でおよそ6,000万人と言われる。主要参戦国における死亡者数の概数は、ソ連2,000万人(軍人1,300万人・市民700万人)、中国1,350万人(350万人・1,000万人)、ドイツ730万人(350万人・380万人)、ポーランド540万人(12万人・530万人)、フランス60万人(25万人・36万人)、イギリスおよびイギリス連邦50万人(45万人・6万人)、日本210万人(170万人・38万人)、アメリカ40万人(40万人・0.17万人)、イタリア40万人(33万人・8万人)と推定されている。
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敗戦国となった枢軸諸国にはアメリカ軍を中心とする戦勝国の軍隊が進駐した。敗戦国への処遇は第一次世界大戦の戦後処理の反省に基づいたものとなった。第一次世界大戦の戦後処理では、敗戦国ドイツの軍備解体が不徹底であったため、ドイツは再度第二次世界大戦を挑むことができた。しかし第二次世界大戦の戦後処理では敗戦国の軍備は徹底して解体され、敗戦国が他国に対して再度侵略行為を行うことは不可能となった。一方で、敗戦国への戦争賠償の要求よりも経済の再建が重視された。西ヨーロッパではマーシャル・プランが実施され、日本ではGHQによる政治経済体制の再構築が行われた。戦後、敗戦国は経済的には復興したが、軍事力においては限られた影響力しか持たない状態が続いている。

ドイツ東部を含む東ヨーロッパおよび外蒙古・朝鮮半島北部などにはソ連軍が進駐した。ソ連は東ヨーロッパで戦前の政治指導者を粛清・追放し、代わって親ソ連の共産主義政権を樹立させた。中国でも中国共産党が国共内戦に勝利し、世界はアメリカ・西ヨーロッパ・日本を中心とする資本主義陣営と、ソビエト・東ヨーロッパ・中国を中心とする共産主義陣営とに再編された。この政治体制はヤルタ会談から名前を取ってヤルタ体制とも呼ばれる。そしてその後も二つの陣営は1990年代に至るまで冷戦と呼ばれる対立を続けた。

2009年06月10日

憲法で自由主義原理が採用されるのは

憲法で自由主義原理が採用されるのは、“個人に至上価値を認める以上は、各人の自己実現は自由でなければならないからであり、また、自由は民主政の前提となるもの”だからである。

自由主義の内容を人権面と統治構造に分けてみると、

人権 自由権の保障 第3章 11条 97条
統治
権力分立制 41条 65条 76条(国家権力の濫用防止のため)
二院制 42条(慎重・合理的な議事のため)
地方自治制 92条?(中央と地方での抑制・均衡を図るため)
違憲審査制 81条(少数者の自由確保のため)
となる。

当初は、国家権力による自由の抑圧から国民を解放するところに重要な意味があった。基本的人権は、単に「人権」「基本権」とも呼ばれ、特に第3章で具体的に列挙されている(人権カタログ)。かかる列挙されている権利が憲法上保障されている人権であるが、明文で規定されている権利を超えて判例上認められている人権も存在する(「知る権利」、プライバシーの権利など)。
アジアの美術
よの付く言葉
スポーツのあゆみ
くの付く言葉
名犬マルチーズ
雨模様
猫ニャン
柴犬について
生命の誕生
りんごのほっぺ
版画
オークション
映画館
射撃
応用数学
トリックアート
証券取引所
乗馬
高血圧症
ゲートボール

また、権力の恣意的な行使により個人の人権が抑圧されることを回避するため、統治機構は権力が一つの機関に集中しないように設計され(権力分立や地方自治)、個人が虐げられることのないように自由主義的に設計されているといわれる。

基本的人権の尊重は、古くは、人間の自由な思想・活動を可能な限り保障しようとする自由主義を基調とする政治的理念であった。政治的な基本理念である「自由主義」は、国家権力による圧制からの自由を意味し、国家からの自由の理念を示すため、「立憲主義」と表現されることも多い。特に、権力への不信を前提にすることから、単に「国家からの自由」ともいわれる。民主政治の実現過程において、国家権力による強制を排除して個人の権利の保障をするための理念として自由主義は支持された。自由主義は、政治的には市民的自由の拡大、経済的には自由政策の維持として表れるといわれている。さらに、自由主義は、個人の幸福を確保することを意図した理念でもあることから、国民が個人の集合体に変化するのにともなって、国のあり方を決定づける理念として把握されるようにもなった。日本国憲法における国家組織の規定も、国民主権の考え方と相互に関連して、自由主義を踏襲している。

2009年06月06日

常滑焼(とこなめやき)は、愛知県常滑市を中心とし

常滑焼(とこなめやき)は、愛知県常滑市を中心とし、その周辺を含む知多半島内で焼かれる陶器。

平安時代末期、猿投窯南部の灰釉陶窯の南下に伴い形成された知多半島古窯跡群を母体とするが、灰釉陶器の伝統にはない大型の甕や壺を新たに主要な器種として創造することで瓷器系中世陶器の主要生産地となった。中世の常滑焼の窯跡は1,000基以上で数千基に及ぶとされるが、その実数は不明。過去の学説では最高10,000基というものがあるが(注1)、根拠は不明瞭といわねばならない。
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平安時代末期の製品は素朴な中にも王朝文化の名残を感じさせる優美さを持ち、経塚などの仏教遺跡で用いられる事例が少なからずあり、さらに奥州平泉の遺跡群で大量につかわれていたことが判明している(注2)。

鎌倉時代には素朴で力強い壺、甕などが生産され鎌倉では、おびただしい量の壺・甕・鉢が消費されていることが鎌倉遺跡群の発掘調査で判明している。そして、平安時代末期以来、広く太平洋沿岸を中心として流通していたが、鎌倉時代になると、さらにその流通圏は拡大・充実している。瀬戸内地方の広島県福山市に所在する草戸千軒町遺跡は、備前焼の生産地に近い立地ながら、鎌倉時代の常滑焼が数多く出土しており(注3)、そこからも、この時期の常滑焼の流通のあり方がうかがわれる。

その数数千基とも言われる中世窯は、広く知多半島の丘陵部傾斜面に掘られた地下窖窯(ちかしきあながま)で、その大半は平安時代末期から南北朝期までの期間におさまっている。なお、中世常滑焼を代表する大型貯蔵具の生産は、常滑地域を中心とする半島中部の窯で行われることが多く、半島の北部や南部では、灰釉陶器に由来する山茶碗・小碗・小皿などを中心とした生産が行われている。

室町時代になると半島全域に広く分布していた窯は旧常滑町周辺に集まり、しかも集落に近接した丘陵斜面に築かれるようになる。この段階では碗・皿類の生産は行わず、壺・甕・鉢の生産に特化している。また、室町期のある段階で半地上式の大窯に窯の構造が転換している。そして、その大窯は江戸時代の常滑焼を焼いた窯でもあり、別に鉄砲窯とも呼ばれた。古美術の分野で「古常滑」と呼ばれるものは、多く窖窯で焼かれた製品を指しているが、その区分はかならずしも明確ではなく大窯製品をも古常滑の中に入れる場合も少なくない(注4)。

注1『柴山古窯址群』常滑市文化財調査報告第4集1974年常滑市教育委員会第二章1常滑市域の古窯址で杉崎章が総数1万基という推定数を示している。


注2『柳之御所跡発掘調査報告書―平泉バイパス・一関遊水地関連遺跡発掘調査―』岩手県平泉町文化財調査報告第38集1994年平泉町教育委員会ほか平泉遺跡群の発掘調査報告書には、かならずといってもよいほど常滑焼の出土が報告されている。

注3「草戸千軒町遺跡およびその周辺遺跡にみる常滑焼」佐藤昭嗣・鈴木康之『知多半島の歴史と現在』№41992年日本福祉大学知多半島総合研究所・校倉書房に詳しいが、草戸千軒町遺跡の報告書も刊行されており、常滑焼の出土が報告されている。

注4『時代別古常滑名品図録』澤田由治編著1974年光工芸では江戸時代までの作品が採録され解説されているが、古常滑の範囲に関する記述は認められない。

2009年04月23日

慶雲の改革

慶雲の改革(けいうんのかいかく)は、飛鳥時代末期の慶雲3年(706年)以降、文武天皇統治下の朝廷において行われた律令体制改革をいう。

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壬申の乱の勝利後に史上初の「天皇」として即位し[1]、思い切った国制改革を進めた天武天皇が没した後、大后の持統天皇が即位。天武の遺志を継ぎ、日本初の本格的都城である藤原京の建設を進めたほか、飛鳥浄御原令の制定など、唐を参考にした律令の整備・国史編纂事業などを継続した。その持統天皇の譲位を受けて即位した孫の文武天皇の時期には、天武・持統以来の改革の集大成となる律令の制定が急がれ、大宝元年(701年)に大宝律令の完成という形で結実した。しかし律令編纂には入唐経験のある伊吉博徳や、唐から帰化した薩弘恪などが加わってはいたものの、作成を主導した刑部親王や藤原不比等らは唐律令の実態に精通していた訳ではなく、やや理想的な傾向を残すものでもあった。その結果、施行してみて初めて分かった矛盾・不備なども認識されるようになる。大宝3年(703年)持統太上天皇が崩御すると、実際に施行されはじめた律令と、現実的運用とのギャップから、細則の必要性や令そのものへの改革が迫られるようになる

また、大宝3年(703年)から慶雲4年(707年)にかけて連続的に発生した飢饉と税体系の不備により貧窮する農民が続出したため、その救済策も求められた。

大宝元年、大宝令の編纂にも携わった粟田真人が遣唐大使(執節使)に任命され、文武天皇から節刀を授けられた[3]。天智天皇8年(669年)以来実に32年ぶりとなる遣唐使である。翌年に筑紫を発し、唐に漂着した。この大宝度の遣使の目的は、白村江の戦い以来冷却していた唐との交流を回復するとともに、天武天皇以来の改革で日本に本格的首都および律令体制が完成したこと、天皇号および「日本」の国号が成立したことを唐に対して宣言することなどを目的とする、非常に重要な使節であった。

しかし当時、唐王朝は武則天(則天武后)による簒奪で周王朝に代わっていたことを日本側が把握していなかったため、粟田真人らは現地で若干の混乱を生じた。また、彼らが都・長安で見た実際の都城や律令制の運用実態は、日本国内での想像とは似て非なるものであった。たとえば藤原京では大極殿を含む宮(藤原宮)を都城の中央に配置していたが、長安城をはじめとする中国の都城では太極宮を含む皇城は、都城の北端中央にあるのが通例であった。律令の運用形態も日本とは異なり、律令の不備を行う格式なども制定されていた。大きな衝撃を受けて慶雲元年に帰国した粟田真人らは、これらの日中の都城や律令制の差異を報告し、文武朝の改革に生かされていく。

2009年04月19日

産業革命前後のアジア・アフリカ

「世界の一体化」の観点によって18世紀までと19世紀をくらべると、覇権を握る中枢国は同じイギリスだったが、その世界の構造も密度も異なる様相を呈していた。18世紀までのイギリスの生産力や軍事力にはいまだ限界があり、たとえば、アジア諸国を植民地化する力はなかった。また、17世紀から18世紀にかけて海外との通商と交渉を担当したのは政府ではなくイギリス東インド会社だった。

それに対し、産業革命後の19世紀では、東インド会社は貿易独占権を制限され、産業資本は自由放任主義を採用するイギリス政府の支援をうけつつ世界各地の沿岸部に進出し、インドをはじめとして地球上の重要な地域を植民地化していった。植民地化しない場合であっても、現地の国家主権ないし政治的独立を認めたうえで経済的には従属させるという手法が採られた。

グレート・トレック
南アフリカのケープ植民地は、17世紀なかばにオランダが植民地をきずいて以来、オランダ人をはじめとする西ヨーロッパ系住民が農業、牧畜を営む定住地を形成していた。かれらは、この地のサン人とよばれる狩猟民やコイコイとよばれる牧畜民族(合わせてコイサンと称する)を支配する一方、マダガスカルやインドネシア方面からも奴隷を移入させ、多くの混血の層をうみだすとともに、アフリカーンスという独自のことばを発達させた。

1814年にイギリス領となると、数十万に達していたオランダ農民の子孫たちは不満をもちはじめ、ケープ政府のイギリス化への反発、みずからの選民思想、奴隷解放にともなう打撃などから、ケープ植民地から新天地を求め、偵察隊の報告をもとに困難を覚悟で植民地の境界をこえて北上した。この移住は1835年から1837年ころまで続き、グレート・トレック(en)とよばれる。

このような拡大は、これまでヨーロッパ人と接触することがなかったコイサンや、北方のバントゥー語群系のアフリカ人社会を、根本から破壊することとなり、各地で反抗や戦争がたえまなくおこった。しかし、かれらはしだいに土地をうばわれ、強制労働にかりだされるなどして、のちのアパルトヘイトをうむ南アフリカ社会の基礎がつくられていった。

中東情勢
アラビア半島では、退廃的なオスマン帝国に対抗するかたちで、ハンバル学派に所属する厳格なワッハーブ派が台頭してきた。「ムハンマド時代のイスラームに帰れ」を呼号したムハンマド・イブン・アブド・アルワッハーブの急進的な思想を受け入れたナジュドの豪族であるサウード家のムハンマド・イブン・サウードは、その思想の普及のための宗教的・軍事的キャンペーンを展開した。その結果、1744年、リヤド西方のディリーヤを首都に定めた第一次サウード王国がアラビア半島に成立した。第一次サウード王国の領域は現在のサウジアラビアからクウェートやオマーン、シリア、また、シーア派の聖地カルバラーにまで広がった。

サウード家の軍隊は、1802年には、聖地マッカ及びマディーナを占領するにいたり、ここにオスマン帝国との衝突を招くこととなった。聖地を失うことはオスマン帝国にとっては大失態だったが、サウード家の軍隊をしりぞける実力は既に残っておらず、1798年、ナポレオンに率いられたフランス軍がエジプトに上陸し、その撤退後にオスマン帝国が派遣したエジプト総督ムハンマド・アリーは、かえってこの地で自立し、英仏の軍事・経済援助を受け入れて近代化と富国強兵を目指すなど、独自の政策を推し進めた。エジプトで台頭していたムハンマド・アリーの手によって、サウード家の討伐は実施された。1818年、第一次サウード王国はムハンマド・アリーの攻撃を受けて、いったん滅亡した。ワッハーブ派の運動が与えた影響はその後のアラビア半島にも残ったが、サウード家の本格的な復興は20世紀を待たなければならなくなった。
しかし、ムハンマド・アリーは、1830年代末にオスマン帝国からの分離独立を目指して戦端を開き、かえってヨーロッパ諸国の干渉を招き、国内市場の開放を迫られることとなった。以後、エジプト経済はヨーロッパ経済への従属の度合いを深めた。さらに、オスマン帝国から半分、独立状態だったレバノン首長国は、ムハンマド・アリーと接近しすぎていたために、ヨーロッパのエジプト介入の巻き添えを受けた。キリスト教徒(マロン派)が多かったレバノンは、これより後、フランスの影響下におかれることとなった。
スチック プロパ セッター スロープ サブセ ソンソ キラウエ くるくる デイユース ニクロム ルーガル ドードー トリコロ マリン ハイチ キュー ナビユー ワンダラー カバレ ファイト さやえん カスミソウ グラフ ラードツ リング シンプル パイロー サイン ワーク ワイヤ スペルラ ファイラー スペアイト ナビドウ クトリン スープ ドット スイート 弥生姫 クレド タフネス ダーク フレーバ アッラー フロー リキッド クチュリ フォア ザンス ファイブ


19世紀初頭の西アジアにおける主要な政治勢力は、オスマン帝国とイラン高原のガージャール朝だったが、オスマン帝国は、18世紀以来オーストリアやロシアと戦って次第にその領土を侵食されていた。それに加え、19世紀に入るとフランス革命の影響によってバルカン半島で民族意識が高まり、ギリシャ独立戦争にみられるように諸民族は自立の動きを強めた。ヨーロッパ諸国はこの動きを歓迎して積極的に支援したため、オスマン帝国は国内的にも苦境に陥った。1838年、イギリスとオスマン帝国は通商条約を結んだが、これはオスマン帝国に関税自主権のない不平等条約であり、属領エジプトにも適用された。かつて、オスマン帝国が恩恵として与えていたカピチュレーションも今や不平等条約をおしつける際の格好の足がかりとなり、中国、日本など他のアジア地域との通商の際にも応用されることとなった。

1839年、オスマン帝国では、スルタンの交代が起こった。父マフムト2世の死亡により、アブデュルメジト1世がスルタンに即位した。名宰相ムスタファ・レシト・パシャの補佐のもと、ギュルハネ勅令を発布すると、オスマン帝国の近代化に乗り出した。タンジマートの始まりだった。

ガージャール朝は、ファトフ・アリー・シャーに代が代わっていた。ファトフ・アリーは、北からのロシア、南からのイギリスの勢力拡大に抵抗の動きを見せ、フランスとの接触、そして、支援の約束まで取り付けたが、ティルジットの和約で、フランスとロシアの和睦が成立するとその試みも失敗に終わった。1813年および1828年に、2度にわたってロシア帝国との戦争に敗れ、グルジアをはじめとするコーカサスの領土を割譲し、治外法権を認めさせられた。また、鉄道敷設権や鉱山開削権などをヨーロッパ諸国に売却し、結果的にヨーロッパ経済への従属を深めた。

2009年04月04日

朝潮太郎 (2代)

朝潮 太郎(あさしお たろう、1879年4月19日 - 1961年4月30日)は、日本の大相撲の力士である。所属部屋:高砂→佐ノ山→高砂。最高位は大関。愛媛県新居郡(現・西条市)出身。本名薦田長吉(後に坪井)。身長176cm、体重113kg。

20歳の時には、体重の3倍近い荷物を持ち上げる怪力であり、朝汐の佐ノ山に勧誘された。しかし、父が反対しすぐには入門できなかった。父が亡くなると入門、1901年5月に新序出世、四股名は朝嵐長太郎。1906年1月場所、新十両。1907年1月場所、新入幕。1909年1月場所、小結。1910年、1月場所6日目國見山との対戦で、下手投げを打った際、國見山の右膝が脱臼、気付いた朝嵐はそのまま組み止めた。当然検査役も気付いて水入り、土俵下で控えていた横綱常陸山の提案により痛分となり「情けの八百長」と評判になった。1910年6月場所、関脇になり朝汐太郎の名を継承。1912年5月場所より、汐を潮に書き換え。1915年1月場所、大関。絶好調だった1915年6月場所には、途中休場してしまうなど目立った活躍はなく、1919年5月場所を最後に引退。既に2枚鑑札で年寄?砂を襲名していた。

右を差せば無類の強さを発揮し、「右差し五万石」と呼ばれた。

横綱男女ノ川や前田山を育てた。協会取締の重責も担ったが1932年の春秋園事件の責任を取って取締を辞した。1941年12月、前田山に部屋を譲って廃業。1961年4月30日、82歳で没。

成績 [編集]
幕内26場所 98勝64敗25分7預66休、勝率.605

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2009年03月20日

東京対東北各都市間連絡列車

戦前 [編集]
1906年(明治39年)4月 上野駅?仙台駅間を東北本線で結ぶ急行列車を設定。
常磐線廻りの急行と重複する区間を省略する形で運行を開始した列車であるが、後に青森駅まで区間延長された。以後終戦までは上野駅?青森駅間直通の列車が中心とされていくこととなり、同時期の急行列車で各都市間連絡といえるものは奥羽本線経由で上野駅から秋田駅・青森駅までを結んだ急行列車程度となる。ここでは、それを中心に記す。
1922年(大正11年)3月 奥羽本線経由で上野駅?青森駅間を結ぶ急行701・702列車を新設。
1940年(昭和15年)10月 701・702列車から列車番号を改めた401・402列車は、秋田駅どまりとなる。
1943年(昭和18年)10月 401・402列車、普通列車へ格下げ。
マニャック フォーク 苺姫 夕べの鐘 オロシ メイド セル チウム スケート オカラヌス ジャグ スマイル 平安夢 リッジ ブング トランプ クション カセット スピリ ラフォーン シーダ トリプル ビロード ウエルト リング ネゲブ あかぼり ピグミー ラッフル シンカー リスク だいふく マシン バルク フリスビー キエフ ミルミル マルキ タッチ セグメント ネブラス セニョー ハマス とりゅふ アップ リヤス ラピス べにかば メモ スキーデ

戦後・東京対東北各都市間での優等列車の展開 [編集]
1946年(昭和21年)11月 上野駅?仙台駅間を東北本線経由で運行する急行列車として、109・110列車が設定される。
1947年(昭和22年)1月 石炭事情の悪化により、109・110列車運休。
1947年(昭和22年)6月 石炭事情の好転に伴い109・110列車の運行を復帰。
1948年(昭和23年)7月 109・110列車の列車番号を103・104列車に変更。運行区間を上野駅?青森駅間とする。ただし、仙台駅以北を不定期運転とする。
1950年(昭和25年)10月 103・104列車の列車番号を101・102列車に変更。列車運行区間は上野駅?仙台駅間であるが、仙台駅で一部車両を上野駅?青森駅間を常磐線経由で運行する「みちのく」へ併結する形をとった関係で、青森駅発着となる。なお、翌11月101・102列車に、「青葉」(あおば)の名称が与えられる。
なお、この列車には上野駅?仙台駅間のほかに上野駅?会津若松駅間、上野駅?院内駅・秋田駅間など多層建て列車としての側面を有していた。
1954年(昭和29年)10月 上野駅?仙台駅間を運行する急行列車「松島」(まつしま)運行開始。
1956年(昭和31年)11月 ダイヤ改正により以下の様に変更される。
上野駅?盛岡駅間を運行する不定期急行列車「いわて」運行開始。
「青葉」の秋田駅発着編成を分離。「鳥海」(ちょうかい)の名称を与える。これにより、「青葉」上野駅?青森駅間の運行となる。
1958年(昭和33年)10月 ダイヤ改正により以下の様に変更される。
「いわて」常磐線経由で青森駅まで延伸。
「青葉」「みちのく」の運行区間に変更に伴い、盛岡駅までの運行となる。
上野駅?仙台駅間運行の無名の準急列車を急行列車に昇格させ、「吾妻」(あづま)の名称を与える。
上野駅?福島駅間運行準急列車の「あぶくま」運行開始。
1959年(昭和34年)9月 上野駅?仙台駅間を常磐線経由で運行する急行列車「みやぎの」が運行を開始。
キハ55系を使用し、日本初の定期ディーゼル急行列車となった。
1960年(昭和35年)6月 「松島」に上野駅?山形駅間運行の急行「蔵王」を連結開始。また、夜行列車として上野駅?福島駅間運行の準急列車「しのぶ」運行開始。
1960年(昭和35年)10月 「いわて」東北本線経由となり、定期化。

2009年03月05日

截教

通天教主(つうてんきょうしゅ)
截教の教主。碧遊宮に住む。
四聖(しせい)
西海九竜島に住む四人の仙人。王魔(おう ま)、楊森(よう しん)、高友乾(こう ゆうけん)、李興覇(り こうは)。
聞仲の頼みによって商に加担する。いずれも身長は一丈五六尺で、恐ろしい容貌をしており、跨る怪獣の瘴気によって西岐の馬は黄飛虎の五色神牛以外全て倒れこんでしまった。
十天君(じってんくん)
練達の道士たちで、旧知の聞仲が窮地に陥っていることを申公豹に知らされ、参戦する。それぞれの個性に応じた陣を敷いて待ち構える。
秦天君(秦完)
十天君の一人。天絶陣を敷いたが、文殊広法天尊に倒された。
趙天君(趙江)
十天君の一人。地烈陣を敷いたが、懼留孫に生け捕られ、他の九陣が全て破られた後に処刑された。
董天君(董全)
十天君の一人。風吼陣を敷いたが、慈航道人に倒された。
袁天君(袁角)
十天君の一人。寒氷陣を敷いたが、普賢真人に倒された。
金光聖母
十天君の一人。金光陣を敷いたが、広成子に倒された。
孫天君(孫良)
十天君の一人。化血陣を敷いたが、太乙真人に倒された。
柏天君(柏礼)
十天君の一人。烈焔陣を敷いたが、陸圧道人に倒された。安能版では柏天君ではなく白天君になっている。
姚天君(姚賓)
十天君の一人。落魂陣を敷いて姜子牙の三魂七魄を奪おうとしたが、赤精子の妨害にあって失敗に終わった。後に赤精子と再戦して倒される。
王天君(王変)
十天君の一人。紅水陣を敷いたが、清虚道徳真君に倒される。安能版では、王奕(おうえき)と言う名に変えられている。王霊官。
張天君(張紹)
十天君の一人。紅砂陣を敷いたが、南極仙翁と白鶴童子に倒される。
趙公明(ちょう こうめい)
峨嵋山羅浮洞の仙人。黒い虎に跨り鞭を持つ。聞仲の頼みを受けて商に加担し、闡教の仙人たちと戦ったが、陸圧道人の策により釘頭七箭書で呪殺された。
陳九公・姚少司(ちん きゅうこう・よう しょうし)
趙公明の二人の弟子。師と共に下山して商に加担する。呪いをかけられ死に瀕した公明を援けるために、姜子牙から釘頭七箭書を奪い取るが、聞仲の姿に化けた楊戩に騙されて命を落とした。
三姑(さんこ)
趙公明の三人の妹たち。 申公豹によって趙公明の死を知らされ、兄の仇討ちをするために九曲黄河陣を敷く。
雲霄(うんしょう)
長女。趙公明に頼まれても金蛟剪を貸し渋るなど戦いに積極的ではなく、趙公明の死を知ったときも仇討ちには乗り気ではなかった。兄の死に激怒した妹たちが闡教の門人を無闇に傷つけることを恐れ、共に下山したが、結局戦いを止めることはできなかった。
瓊霄(けいしょう)、碧霄(へきしょう)
趙公明と雲霄の妹。兄の死に憤り、仇を討つために下山する。
安能版では碧霄が姉で瓊霄が妹としているが、原作にはどちらが年上であるかは明記されていない。なお原文の第九十九回にある封神榜では「雲霄娘娘 瓊霄娘娘 碧霄娘娘」と、瓊霄の方が先に名前が挙げられている。
呂岳(りょ がく)
申公豹に頼まれて、四人の弟子と共に商に加担し、西岐に疫病を広める。後に瘟コウ陣を敷いた。
馬元(ば げん)
申公豹に頼まれて商に加担した。頭の後ろから一本の腕を伸ばして人間を食べてしまう。文殊広法天尊の計略にかかり殺されかけるが、仏縁があったため準提道人によって西方に連れて行かれた。
羅宣・劉環(ら せん・りゅう かん)
申公豹に頼まれて商に加担し、西岐城を燃やした。
長耳定光仙(ちょうじていこうせん)
截教の仙人。通天教主に六魂幡を渡されたが、万仙陣で自教の不利を悟って逃げ出した。後に西方へ行った。
余元(よ げん)
金霊聖母の弟子。汜水関で弟子の余化を殺され、仇討ちのために商に加担する。捕らえて処刑しようとしたところ、首を斬ることができなかったため、懼留孫の提案により縄をかけたまま鉄箱に詰めて海に沈められた。だが水遁によって脱出し、碧遊宮で師の金霊と共に訴え、通天教主から法宝を授かる。その後再び周との戦いに挑むが、結局捕らえられ、陸圧道人の飛刀によって首を刎ねられた。
火霊聖母(かれいせいぼ)
多宝道人の弟子で、胡雷の師。佳夢関で弟子が周軍に殺されたため、仇を討つために商に加担する。三千の兵士を火竜兵として教練し、周軍の無数の兵を焼殺した。広成子によって倒されたが、遺品である金霞冠が碧遊宮に届けられたことで截教徒の不満が高まり、誅仙陣が開かれるきっかけとなる。
多宝道人(たほうどうじん)
截教の仙人。火霊聖母の師。広成子が火霊の遺品を届けに来た際、截教は侮辱されていると通天教主に訴えたため、誅仙陣を敷くよう命じられた。
金霊聖母(きんれいせいぼ)
截教の仙人。聞仲と余元の師。広成子が火霊聖母の遺品を届けた際に憤慨し、截教徒を煽った。万仙陣で普賢真人・文殊広法天尊・慈航道人の三人と同時に戦うが、横合いから燃灯道人の攻撃を受けて命を落とした。
亀霊聖母(きれいせいぼ)
截教の仙人。広成子が火霊聖母の遺品を届けた際に憤慨し、彼に斬りかかるが、番天印を投げられて原身である亀の姿を晒し恥をかいてしまう。その後万仙陣で懼留孫と戦うが、仏縁があったため接引道人によって西方に連れて行かれようとする。だが白蓮童子のミスによって蚊の群れに血を吸われ死んでしまった。
無当聖母(むとうせいぼ)
截教の仙人。広成子が火霊聖母の遺品を届けた際に憤慨し、截教徒を煽った。
烏雲仙(ううんせん/海亀)
万仙陣で敗れて原身を暴かれ、西方に連れて行かれる。
霊牙仙(れいがせん/白象)
万仙陣で敗れて原身を暴かれ、普賢真人の乗物となる。
蚪首仙(きゅうしゅせん/青毛の獅子)
万仙陣で敗れて原身を暴かれ、文殊広法天尊の乗物となる。
金光仙(きんこうせん/金毛の獅子)
万仙陣で敗れて原身を暴かれ、慈航道人の乗物となる。
石磯娘々(せっきにゃんにゃん/石)

女媧配下
女媧(じょか / にょか〔安能版〕)
千年狐狸精たちに紂王の元へと行き、破滅するよう命ずる。
九頭雉鶏精(きゅうとうちけいせい) / 胡喜媚(こ きび)
千年狐狸精の義妹。
玉石琵琶精(ぎょくせきびわせい) / 王貴人(おうきじん)
千年狐狸精の義妹。
リーゼント ミニスト 検索うり きえいよこ マンテ コニャック デュレ ピッコロ サイレン ブリストル カレワラ タワー国内 システ はけご フィット 砂時計 ドレート シェフレラ リラキ 純潔 プランナ モダニスト オフサイド サステナ チリソース フクシア ブルー タグボ ゴスペル ラシャ テキント ファロス うばざくら パンドラ エレガ チャネリ オート 紅梅 チキク イオ次 ブラック ドアチェーン パドル ローラシ かいこう 亀王 クロノ タックル マンス インワン

その他
申公豹(しん こうひょう)
姜子牙の弟弟子。自らの頭を切って飛ばすことができる。
もともと闡教の道士だったが、姜子牙に恨みを抱き、十天君や殷郊・殷洪兄弟、土行孫、趙公明の三人の妹たちなど多くの仙人・道士を周に送り込んで、封神を妨害した。懼留孫に捕らえられた際、元始天尊の前で「再び子牙に害なることがあれば北海眼に押し込められても構わない」と口先だけの誓いを立てる。後に万仙陣で截教陣営に加わったため、白鶴童子に捕らえられ、先の誓いのとおり北海眼に封じられた。
原作と安能版の最大の違いは申公豹の扱いにある。安能版では許由と同一人物としているが事実ではない。また、安能版では申公豹は老子の庇護を受けている設定になっているが、この二人は原作では何の接点もない。申公豹は原作では、自分の命乞いをしてくれた姜子牙を逆恨みしたり、口先だけの誓いをたてたりするれっきとした『悪役』だが、安能版では天界の策略に憤りを覚えて妨害するアウトサイダーとして肯定的に描かれている。原作では「西岐など俺が血の海と白骨の山にしてやる」と吐き捨て、数多の仙家の者を戦いに送り込んで姜子牙を殺そうとするが、安能版では、仙界に頼らず戦いの規模の拡大を抑えるよう姜子牙に頼んだり、時には姜子牙の命を救ったりと、行動理念が完全に逆になっている。安能版は読者に好感をもって迎えられているが、物語の最後で設定に矛盾が生じている。
また、安能版では申公豹は雷を発生させる『雷公鞭』という宝貝を所持しているが、この宝貝は原作には全く存在しない。原作で申公豹が所持するのは宝剣と『開天珠』であり、封じられる神格も海の水を凍らせたり溶かしたりする分水将軍で、雷とは全く縁が無い。実力の描かれ方にも大きな差があり、原作では白鶴童子にあっさりと敗れる場面があるが、安能版では女媧に影響を与えるほどに力があることになっている。
安能版の申公豹には根強いファンも多いが、原作本来のイメージとは全く異なる人物像であり、学術的には批判の対象になっている。
黒点虎(こくてんこ)
安能版オリジナル。申公豹が乗騎している聖獣。原作では申公豹の騎獣は『白額虎』だが、安能版の『黒点虎』のように人間の言葉を喋る能力や、千里眼・順風耳の能力はない。
柏鑑(はく かん)
かつて黄帝軍の総兵官だった男。蚩尤と戦った際に火器で海に打ち落とされ、千年もの間魂が救われずにいた。姜子牙によって助けられ、百霊旗を持って封神台に魂魄を導く役目を負った。
羽翼仙(うよくせん)
蓬莱島の大鵬鵰。周に加担するが燃灯道人の計略にあって捕らえられ、彼の弟子になった。後に孔宣との戦いで周に助力した。
陸圧道人(りくあつどうじん)
西崑崙の閑人で、炎の精。飄然と現れては姜子牙に助力して去っていく。
準提道人(じゅんていどうじん)
西方の教主で仏教門徒。西方に縁がある者を連れて行く。
接引道人(せついんどうじん)
西方の教主で仏教門徒。西方に縁がある者を連れて行く。
瑶池金母(ようちきんぼ)
西王母。竜吉公主の母。殷郊を収める際に、南極仙翁の要請を受けて素色雲海旗を借し出した。
黄帝・伏羲・神農(こうてい・ふっき・しんのう)
火雲洞の三聖大師。呂岳や余徳によって疫病が撒かれた際、周に助力した。
安能版では彼ら三人が天帝であるとしているが、これは原作には存在しない設定で、原作における天帝とは昊天上帝のことである(そもそも竜吉公主が天帝と西王母の娘であるため、安能版の設定では矛盾が生じてしまう)。また彼らが下界の政治を遠隔操作しており、その命令が『天数』(天命)であるなどと安能版には記されているが、これも創作であり、原作でいう天命とは誰か特定の人物の陰謀じみたものではなく、ごく純粋な宿命思想に基づいたものである。
鴻釣道人(こうきんどうじん)
老子・元始天尊・通天教主の師。万仙陣の戦いを収拾させるために、三人の弟子に丹薬を飲ませ、再び争えば体内の丹薬の力で死に至るものとした。

2009年02月14日

先生だーいすき

叔母が理事長を務める聖カタリナ学院で、条件付ながら教師として雇われた主人公。入寮した小鳩寮で待っていたのは低身長の少女達であった。

ZEROの『はじめてのおるすばん』・『はじめてのおいしゃさん』等と並ぶロリゲームとされると共に、更に幼い絵柄である事から一部で「ペドゲー」とも言われている。また、濃厚なフェラチオ描写にも定評があり、「フェラゲー」としても評価が高い。 前述の『はじめてのおるすばん』・『はじめてのおいしゃさん』等がゲームスタート時には主人公とヒロインが恋人同士の関係からスタートしているのに対し、本作本編は出会いからスタートする、ヒロインが各個抱える問題を主人公とヒロインが打ち解け共に問題にぶつかるまでの描写がこの手のゲームにしては珍しく緻密に長めに描写されている。 この手法は好評を得ているものの、「その」シーンを手っ取り早く楽しみたいユーザーからは不満の声もあがっている模様。 一人を除いて、髪の色が茶髪や黒系といった現実の日本人ライクの色に統一されている。
桐島 和也(きりしま かずや)
シンジケ ビシー リング 毬つき パイラ ハート ピーフォ プロフ たらのき ドロー サバラン かっぽう レッドベ カード シップ バーディ デシジョン たらのき キャスク レザー ギブアン デコーダ トップ パパイヤ バイオレ オロジー テルミン テンレポ カクタス モスク もくず ミシンポ ワンコイン フォルシェ ブルガリア トロント ルーメン タウン オーソス シライド おにしま レーサコテ ファイン パワー バカロ ショーツ メニュー ヤングリ マイカー ふとう

主人公(名前は変更可)。両親を亡くし経済的にも火の車だった状況下、更に教師を目指していたが就職活動も空振りに終わりかけていた。そんな折、数少ない身内である叔母:桐島光子より「私が理事長を務める学校で働かないか?」と連絡が来る。試用期間で好成績を上げられたら本採用と言う条件付ながら、その内容は破格でありすぐさま「聖カタリナ学院」に就職する事になり、学生寮である「小鳩寮」に入寮する事となった。
御影 葵(みかげ あおい) 声:岩城由奈
遠方の実家から奨学生として入寮している生徒。素直で明るく、何事に対しても興味を持ち天真爛漫。弟である薫も入寮しており薫に対する行動からすると姉としての自覚があるようだが、実はかなりの甘えん坊である。ソフトボール部に所属する。
西園寺 智世(さいおんじ ともよ) 声:木葉楓
幼児期に家族を失い、以降双子の姉:由比と共に孤児院で育ち入寮した奨学生。引っ込み思案であり幼児期から友達が出来にくかったが、実は他人から嫌われるのを恐れている。今は亡き兄が大好きで、そのために料理を始めた。家庭科部に所属する。
西園寺 由比(さいおんじ ゆい) 声:北都南
智世の双子の姉、妹と違い活発な上社交的であるが実は寂しがりや。性的な物に興味があるが、間違った知識も多い。兄の影響で弓道をやっており、現在も弓道部所属。
柴ノ宮 月夜(しのみや つきよ) 声:海原エレナ
父:シュバルツを失い小鳩寮寮長である母:美月と共に暮らしている。無口で孤独を愛する他、父の影響でヘミングウェイ等の小説を好む。聖歌隊所属。
柴ノ宮 美月(しのみや みつき) 声:長崎みなみ
月夜の母であり小鳩寮寮長。聖カタリナ学院看護学部・神学部卒で非常にしっかりしているが、天然ボケでドジな一面もある。尚、カタリナ学院の保険医・シスターも兼任している。
御影 薫(みかげ かおる) 声:長崎みなみ
葵の弟。和也の事が気に入らないのか何かと攻撃を仕掛けてくるが、その都度葵の拳骨を食らう羽目になる。実はいじめられっこである。

聖カタリナ学園・小天使寮の寮長に就任した主人公と、4人の寮生たちの出会いと人には言えない関係を描く。

1作目と同様の内容、原画は前作二名のうち片方が続投する形で携わっているが、ブランクあってか原画の崩れが激しかった。これに、ヒロインがいずれも他のゲーム・漫画キャラに酷似している事などから、1作目のファンからの評判はあまり芳しくない。

成神 達也(なるかみ たつや)
主人公(名前は変更可)。聖カタリナ学院の教師をしていたが、学院長から寮長就任を命じられ小天使寮の寮長に。
榛名 美桜(はるな みお)声:茶谷やすら
本作のヒロイン。常に人から良く見られようと努力を怠らず「品行方正・成績優秀」で通っている。
長門 愛(ながと あい)声:青山ゆかり
根は優しいが、人付き合いに極度の抵抗を感じており寮生以外と接するのを避けている少女。聖歌隊に所属し、バイオリンを担当している。
アリス・フォン・ローゼンブラウ 声:一色ヒカル
双子の姉で、ドイツ人と日本人のハーフ。人見知りが激しく、達也に対して非常に攻撃的な態度を取る。
リリス・フォン・ローゼンブラウ 声:芹園みや
アリスの双子の妹。性格は姉とは違って無邪気で素直。達也に対しても知り合った直後から懐いて来る。

2009年01月27日

XF-108 (戦闘機)

XF-108は、アメリカ空軍の長距離要撃機・護衛戦闘機。開発はノースアメリカンが行っており、愛称はレイピア(Rapier、細身の剣)。予算上の問題や、護衛対象とされたB-70戦略爆撃機の計画縮小などから実機が制作されないまま1959年9月23日に開発が中止された

1950年代初頭のアメリカ合衆国では、北極海を越え核攻撃を目指してくるソビエト連邦の爆撃機を要撃するため、高速度で大きな航続性能を持つ高速要撃機が要求されていた。1952年にはアメリカ空軍によって高速長距離要撃機の開発が検討が開始され、1955年7月20日にはこの種の航空機の開発が認められることなり、ノースアメリカン、ロッキード、ノースロップの3社に要求が提示された。この要求には、双発複座で武装はミサイルのみ、最大速度はマッハ1.7以上、1,840kmの戦闘行動半径、高度18,000mでの飛行可能、などが盛り込まれた。比較の結果ノースロップのNA-236案が有望とされ、これが採択された。

新たな計画と開発中止
しかし、予算上の問題で長距離要撃機計画は、1956年5月9日に中止となってしまった。その後1957年4月11日に計画は再開されるが、その性格は大きく変更され、長距離要撃のほか当時の戦略航空軍団の次期爆撃機として開発が進められていたB-70の護衛戦闘機としての性能も要求された。そのため、マッハ3での巡航が可能でかつ航続性能の大きな航空機が必要とされた。アメリカ空軍は1957年6月6日にこの要求を盛り込んだ上でノースアメリカンに開発再開を依頼し、試作機2機の発注がなされた。この航空機にはXF-108およびウエポンシステム202Aの名称が与えられた。ノースアメリカンはNA-236案と同様のNA-257案でもって開発を再開した。

しかし、B-70の目標とした航続距離が約12,000km(アラスカ-モスクワ間を無給油で往復することが目標であった)にも及ぶのに対しXF-108は4,000km程度であったことから、戦略航空軍団において「爆撃機の全航程をカバーできない護衛は護衛ではない」、あるいは「戦闘機が向かってくるなら護衛もできるが、対空ミサイル相手では護衛できない」といった護衛戦闘機への懐疑論が生じたことや、ICBMやSLBMなど爆撃機より安全で確実な核攻撃手段の発達などによってB-70計画が縮小されたことにより、計画への興味は次第に失われた。結局XF-108は1959年にモックアップのみ作成されたものの、同年9月23日に再び開発が中止された。

XF-108の代替として、マッハ3で巡航可能なCIAの偵察機、ロッキードA-12の戦闘機型YF-12が新たに計画されたが、これも1965年に試作段階で計画中止となってしまった。A-12の派生型としては他に空軍の偵察機SR-71が実用化されている。B-70も試作機XB-70が二機制作されるのに留まっている。
ユーロ ドラゴン セカンド ナビラッコ バリヤ サーチ天延 セスカーナ ユッカ 京いも パレス レオタガ オマーン フライト リポジ ピンク チャコール サドルシ ライト じゃじゃん シキミ エッジ カチュ クロロ 学園天国 ソワレ ダイレーザ ハンサム シート ニアピン ロハス ラナン ソコン かすかわ 星のフラ シューズ フーズ トレーサー ターピース ルカラー 天羽 シャープ パオトウ くずまき マミー スウェ フォトカ そけい メトニミ フランス スリーエム

機体
2段の後退角を持った高翼の変形デルタ翼機であり、前縁後退角は内翼で58度、外翼で40度となっている。主翼下面にはベントラルフィンがあり、また外翼には4度の下半角が付けられ、垂直尾翼は全遊動式1枚である。2次元インテイクを胴体側面に持ち、B-70と同じゼネラル・エレクトリック製J93ジェットエンジンを2基搭載する予定であった。このエンジンにはスラストリバーサーを装着することも検討された。火器管制装置としてパルスドップラーレーダーを用いたヒューズAN/ASG-18を装備した。武装はミサイルのみで、核弾頭装備のGAR-9/AIM-47空対空ミサイルが計画された。後席の乗員が武器を担当した。因みに、射出座席はB-70と同じ乗員毎のカプセル式が予定された。

XF-108そのものの開発は中止されたが、火器管制装置のAN/ASG-18と空対空ミサイルのAIM-47という組み合わせはA-12の戦闘機型YF-12に引き継がれ、洗練を経てグラマンF-14のAN/AWG-9とAIM-54フェニックスとして結実した。

全長:27.2 m
全幅:17.5 m
全高:6.7 m
自重:21,773kg
最大離陸重量:102,533ポンド(46,508 kg)
最大速度:3,190 km/h
航続距離:4,000 km
翼面荷重:183.4 kg/m
乗員:2名

兵器
ミサイル-3×ヒューズ GAR-9A空対空ミサイル